写メ日記写メ日記
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海に行きたいわ
そう言った彼女を連れ去ることが出来なかった自分を呪った。
それが彼女の最後の願いだなんて、気付かなくて。
最後の最後まで僕は弱虫だった。
『海に行きたいわ』
あの日の弱りきった彼女の姿は、それから毎日僕の夢の中へ現れた。
起きれば僕は泣いていて、彼女の姿を声を忘れまいと何度も頭の中で夢を思い返した。
「お兄ちゃん、早く」
真っ黒な服に身を包んだ妹が部屋を覗きに来る。
まだ着替えてすらいない自分に気が付いて、溜め息をついた。
「先に行っててくれ」
「そんなこと言っても…もうお坊さん来てるもの」
土色になった僕の顔を見て、妹が呆れる。
あのね、と口を開いた彼女が次に発する言葉は容易に想像付いて、耳を塞ぎたくなった。
「一番悲しいのはお義兄さんよ」
「そんな訳あるか。ただの政略結婚の癖に」
「やめてよお葬式の日くらい。シスコンもいい加減にして」
いいから早く、ね。
ドアが閉められる。
そう、僕は彼女の死を悲しむ権利すらない。
喪服代わりの学ラン。
卒業したばかりなのに、大学の入学式用のスーツを買う前に逝ってしまったのだ。
『ねぇ、恒。私が結婚しても、お見舞いに来てくれる?』
『するのか?』
『仕方ないでしょう』
日の当たる病室でそう溜め息をついた彼女が、あの夫を愛していたはずがないのだ。
病弱な自分には結婚する以外に役に立てることがないからと呟いた彼女が。
一階へ降りると、リビングには大きな箱。
彼女が眠るに相応しい真っ白な箱。
「どこに行ってたの、恒」
「小夜に最後の挨拶をして来なさい」
既に彼女の死を受け入れた両親の言葉が気に障る。
睨み付けて、小夜の眠るお棺に近付いた。
箱に縋るように、義理の兄。
大企業の社長ともあろう者が、周りも気にせず座り込んで、冷たくなった妻の頬をなでている。
僕が近づけば、鼻を啜ってその場を譲った。
座布団に座るとドライアイスの冷気が頬をなぜる。
このまま、僕の体温を小夜と同じにしてくれたらいいのに。
線香を立ててから、小夜の髪に触れた。
生前と変わらない、綺麗な髪。
何度も撫でる。
今日だけでいいから、その場にいる人達が仲の良い姉弟だと思ってくれればいい。
…いや、むしろ最後だからこそ…。
綺麗に整えられた唇に、指を滑らせる。
後ろから見ていた義兄がギョッとしたのが分かった。
そんなのは関係ない。
だって、最初から彼女は彼のものではなかったのだから。
ねぇ、好きだよ、姉さん。
『好きよ、恒』
心の中で叫べば、あくる日の彼女の声が耳を打つ。
幻聴だと分かっていて、二度と聞けないと分かっていて、それでもどうしようもなく焦がれた。
今ここで彼女のこの唇に口付けられたらいいのに。
その権利は、今はあの男にしかないのだ。
「恒」
咎めるような母の声で、大人しく立ち上がった。
『見て…良い天気』
『何言ってんだよ、大雨だぞ』
『雨って好きよ、音に紛れてどこまでも逃げていけそう』
『…小夜、逃げるとか言うな』
長い病院生活で真っ白な彼女の腕が、露に濡れる窓に触れる。
白すぎる彼女の腕がアイスクリームのように見えていた僕は、ガラスの熱で腕が指から溶けてしまわないか不安だった。
『雨の日の海が一番好きだわ』
『…あぁ、俺もだ』
『ね、恒?』
消え入りそうな小さな声。
この後に続く言葉を、もう覚えてしまった。
『海に行きたいわ』
彼女が入院したのは、僕が中学を卒業する時で、彼女は19歳だった。
生まれつき肺が弱かった小夜の体が、限界に達していたからだった。
彼女が入院する前日、僕たちは家族で海へ行った。
大雨が降っていたけれど、もうその日しか家族全員で出かけられる日がないと知っていた。
ついた海は一面が薄い灰色に包まれていた。
彼女を車から降ろすために抱き上げたのは家族の中で一番力があった僕だった。
彼女が傘を持って、僕は彼女を背負って、波打ち際まで行った。
家族は全員彼女の側を離れようとしなかった。
ただゆっくりと、荒れ狂う波打ち際を歩いた。
波が足元を洗ったが、僕は彼女をおとすことなく歩き続けた。
やがて、父が写真を撮ろうと言い出した。
車はもう遠く離れていて、父がカメラを取りに車へ戻った。
母が一緒に探す為についていくと、幼かった妹もそれに従う。
二人きりになったな。
そう言おうとしたら先に言われた。
『綺麗ね。海って綺麗』
『晴れてたら良かったのに』
『駄目よ。私、サファイアよりダイヤが好きなの』
灰色の荒れた海をダイヤに例えるなんて、小夜にしか出来ない。
どうしようもなく愛しくて、抱き締めたくて、彼女が背中にいるのが悔しかった。
『降ろして。海に浸かりたいわ』
大人しかった彼女の不意なわがまま。
聞いてあげたくても、出来るわけがない。
…今考えたら、あの時彼女も僕を抱き締めたいと思ってくれていたのか。
『無理に決まってるだろ。水、冷たいんだぞ』
『いいじゃない。生きてる証拠よ』
欲望に負けて、彼女を灰色の砂の上に降ろした。
体力がなくて、立っていられない彼女は、数センチの海水の上に座り込む。同時に僕も膝を折って。
打ち寄せる波に倒れてしまわないように強く抱きしめた。
火葬場へ行くバスの中で、白昼夢。
背中にも胸にも、今でもはっきりと彼女の温もりが残っているのに。
ここまで来て、僕はまだ彼女を連れ去るチャンスを待っていた。
溢れる涙を拭って、バスを降りた。
「恒、最後の挨拶は隆史君に譲るのよ」
閑散とした火葬場は、工場のような雰囲気がして、僕の怒りを煽った。
死んだ小夜が人間扱いされていないような気がしたのだ。
母に言われた通り、最後の挨拶を義兄に譲った。
釘を打ち付けられた棺に、義兄はそっとキスをした。
そして、僕の最愛の体は、ゆっくりとドアの向こうへ吸い込まれ、一層大きくなった泣き声を振り切るように、義兄は。
スイッチを。
サヨナラ。
彼が呟くのを、聞いた。
『お兄ちゃん!直ぐに病院に来て!お姉ちゃんが…!』
妹の電話を受けたのは、病院の中にある万葉庭園でのことだった。
最後の一週間は彼女の夫が病室に付きっきりだったから、僕はせめて彼女が病室の窓から見下ろす万葉庭園にずっといた。
そこからは唯一、彼女の病室が見えたから。
それを知っていた彼女は僕の為に、窓のカーテンを開け続けた。
電話を切って見上げた窓は、医者によってカーテンがひかれる瞬間で、僕は遂に引き離されたと感じて、焦った。
エレベーターを使う時間も惜しくて、階段を駆け上がる。
小夜。
小夜。
小夜。
呼び続ければ彼女が留まってくれると信じて、思わず声に出していた。
しかし、残念なことにその日は雨。
それも、彼女が一番愛した狐の嫁入りだ。
病室のドアを乱暴に開けると、医者の心臓マッサージを受ける彼女の手を、義兄が必死に握っていた。
その周りに家族が囲んで、彼女の名を叫んでいる。
母の叫ぶような泣き声。父の怒鳴るような呼び声。
彼女の夫の、悲痛な愛の言葉。
母は、もしかしたら僕の彼女への感情が愛であると気付いていたのかもしれない。
僕を、義兄の握っていない方の手へ導いた。
宝物だったアイスクリームの手。
握れば思った通り冷たくて。
さらさら
さらさら
家族の叫び声より小さいはずの雨の音が耳をつく。
やめてくれ。
やはり僕は口にしていた。
逃げてもいい。
キミが逃げるなら僕も一緒に行くから。
キミが望むのは雨の海だから。
だからそっちに逃げちゃ駄目だよ。
頼むから、その雨の向こうを目指さないで。
逃げるなら僕と一緒に…。
雨の音が彼女を誘っている。
駄目だ。
そっちに行っちゃ。
強く握れば握る程この声が彼女に届くと信じて、指が白くなるまで彼女の手を握り締めた。
いかないで。
いかないで。
僕を置いてなんていかないで。
微かに、握り返してくれたと思ったのは、気のせいだと医者に言われた。
何故なら、その日は雨が降っていたのだ。
「終わった?」
「あぁ。これで全部だ」
火葬をしている間に、僕は彼女の病室に残った遺品を整理していた。
母が部屋を覗いた時、既に火葬が始まって2時間がたっていて、もうそろそろもう一度火葬場ひ行く時間。
僕は大きな紙袋を母へ渡した。
中には、病室で彼女が読んでいた本や、作った折り紙、日記や文房具、写真たて。
「あら、それは?見たことなかったけど」
「俺があげてたんだ。小夜は棚に隠してたみたいだけど」
母が指差したのは、紙袋へしまわずに僕が持っていたガラスの瓶。
ハチミツの匂いが残るそれに、僕は見舞いに行く度に、海で拾ってきた貝殻を入れたのだ。
瓶がいっぱいになる前に、終わってしまったけれど。
「そう。ほら、行くわよ」
消えてしまいたいと思った。
焼け焦げた台の上に残る白いものを、見た瞬間。
抱き締めることは、永遠に出来なくなってしまった。
無惨。
そう呼ぶのが相応しいと思った。
言われた通り、箸で一つ一つ壺へ入れていく。
すぐに交代しなくてはいけなくて、僕が壺へ入れたのは腕の一部だけだった。
『海に行きたいわ』
それは夢よりも思い返した記憶よりも、何よりはっきり聞こえた。
『恒…』
その瞬間、僕の全てが吹き飛ぶ。抗えない、愛しい声。
ポケットへ突っ込んでいたハチミツの瓶の蓋を開ける。
中身を全部その場にぶちまける。
箸を放り投げて、僕は彼女の欠片を、わし掴んで、瓶へ流しいれた。
「恒ッ!」
「お兄ちゃん!?」
そのまま、僕は走り出した。
息が苦しいのは、走ったからじゃない。
彼女を連れ去った雨が、僕を嘲笑うように纏わりつくから。
雨の中を全力で走り去るのは、酷く心地よかった。
僕をとめようとする家族や親戚を振り切って、火葬場を飛び出して。
国道の横をひたすら走る。
このまま走れば、彼女が去っていった雨の向こうにさえ辿り着ける気がして。
車の走行音に紛れ込んで、叫んだ。
自分で何を言っているのか分からずに、それでも心の底から大声を上げた。
好きだったんだ。
最後の最後まで、手に入らないと知っていても。
許されぬ恋だと知っていても愛し合ったんだ。
我慢して我慢して、最後まで知らない誰かのものなままのキミを、そのまま送り出したくなんてなかった。
最後の最後に、キミの一番近くにいる権利すら奪われて、
キミの望みすら叶えられないなんて。
辿り着いた海は、あの日と同じ顔。
足跡も残っていないその砂の上を、確かに僕は彼女を抱いて歩いたのだ。
あの瞬間、確かに小夜は僕のもので。
確かに僕は小夜のものだった。
父がカメラを探し当てられなければいいと。
このまま永遠が僕らを連れ去ってくれればいいと。
神へ叫んだ願いは何一つ叶えられることはなかった。
僕の願いを叶えられるのは神ではなく彼女だった。
彼女の願いを叶えてあげられるのもまた僕なのだ。
さようなら姉さん。
願わくば、キミの願いを叶えたあとも僕の夢に現れ続けて…。
…けれども、やはり僕の願いはことごとく叶えられることはないのだ。
ならばせめて、流れ去ったあの瓶が、浜へ打ち上げられることがないように。
そう言った彼女を連れ去ることが出来なかった自分を呪った。
それが彼女の最後の願いだなんて、気付かなくて。
最後の最後まで僕は弱虫だった。
『海に行きたいわ』
あの日の弱りきった彼女の姿は、それから毎日僕の夢の中へ現れた。
起きれば僕は泣いていて、彼女の姿を声を忘れまいと何度も頭の中で夢を思い返した。
「お兄ちゃん、早く」
真っ黒な服に身を包んだ妹が部屋を覗きに来る。
まだ着替えてすらいない自分に気が付いて、溜め息をついた。
「先に行っててくれ」
「そんなこと言っても…もうお坊さん来てるもの」
土色になった僕の顔を見て、妹が呆れる。
あのね、と口を開いた彼女が次に発する言葉は容易に想像付いて、耳を塞ぎたくなった。
「一番悲しいのはお義兄さんよ」
「そんな訳あるか。ただの政略結婚の癖に」
「やめてよお葬式の日くらい。シスコンもいい加減にして」
いいから早く、ね。
ドアが閉められる。
そう、僕は彼女の死を悲しむ権利すらない。
喪服代わりの学ラン。
卒業したばかりなのに、大学の入学式用のスーツを買う前に逝ってしまったのだ。
『ねぇ、恒。私が結婚しても、お見舞いに来てくれる?』
『するのか?』
『仕方ないでしょう』
日の当たる病室でそう溜め息をついた彼女が、あの夫を愛していたはずがないのだ。
病弱な自分には結婚する以外に役に立てることがないからと呟いた彼女が。
一階へ降りると、リビングには大きな箱。
彼女が眠るに相応しい真っ白な箱。
「どこに行ってたの、恒」
「小夜に最後の挨拶をして来なさい」
既に彼女の死を受け入れた両親の言葉が気に障る。
睨み付けて、小夜の眠るお棺に近付いた。
箱に縋るように、義理の兄。
大企業の社長ともあろう者が、周りも気にせず座り込んで、冷たくなった妻の頬をなでている。
僕が近づけば、鼻を啜ってその場を譲った。
座布団に座るとドライアイスの冷気が頬をなぜる。
このまま、僕の体温を小夜と同じにしてくれたらいいのに。
線香を立ててから、小夜の髪に触れた。
生前と変わらない、綺麗な髪。
何度も撫でる。
今日だけでいいから、その場にいる人達が仲の良い姉弟だと思ってくれればいい。
…いや、むしろ最後だからこそ…。
綺麗に整えられた唇に、指を滑らせる。
後ろから見ていた義兄がギョッとしたのが分かった。
そんなのは関係ない。
だって、最初から彼女は彼のものではなかったのだから。
ねぇ、好きだよ、姉さん。
『好きよ、恒』
心の中で叫べば、あくる日の彼女の声が耳を打つ。
幻聴だと分かっていて、二度と聞けないと分かっていて、それでもどうしようもなく焦がれた。
今ここで彼女のこの唇に口付けられたらいいのに。
その権利は、今はあの男にしかないのだ。
「恒」
咎めるような母の声で、大人しく立ち上がった。
『見て…良い天気』
『何言ってんだよ、大雨だぞ』
『雨って好きよ、音に紛れてどこまでも逃げていけそう』
『…小夜、逃げるとか言うな』
長い病院生活で真っ白な彼女の腕が、露に濡れる窓に触れる。
白すぎる彼女の腕がアイスクリームのように見えていた僕は、ガラスの熱で腕が指から溶けてしまわないか不安だった。
『雨の日の海が一番好きだわ』
『…あぁ、俺もだ』
『ね、恒?』
消え入りそうな小さな声。
この後に続く言葉を、もう覚えてしまった。
『海に行きたいわ』
彼女が入院したのは、僕が中学を卒業する時で、彼女は19歳だった。
生まれつき肺が弱かった小夜の体が、限界に達していたからだった。
彼女が入院する前日、僕たちは家族で海へ行った。
大雨が降っていたけれど、もうその日しか家族全員で出かけられる日がないと知っていた。
ついた海は一面が薄い灰色に包まれていた。
彼女を車から降ろすために抱き上げたのは家族の中で一番力があった僕だった。
彼女が傘を持って、僕は彼女を背負って、波打ち際まで行った。
家族は全員彼女の側を離れようとしなかった。
ただゆっくりと、荒れ狂う波打ち際を歩いた。
波が足元を洗ったが、僕は彼女をおとすことなく歩き続けた。
やがて、父が写真を撮ろうと言い出した。
車はもう遠く離れていて、父がカメラを取りに車へ戻った。
母が一緒に探す為についていくと、幼かった妹もそれに従う。
二人きりになったな。
そう言おうとしたら先に言われた。
『綺麗ね。海って綺麗』
『晴れてたら良かったのに』
『駄目よ。私、サファイアよりダイヤが好きなの』
灰色の荒れた海をダイヤに例えるなんて、小夜にしか出来ない。
どうしようもなく愛しくて、抱き締めたくて、彼女が背中にいるのが悔しかった。
『降ろして。海に浸かりたいわ』
大人しかった彼女の不意なわがまま。
聞いてあげたくても、出来るわけがない。
…今考えたら、あの時彼女も僕を抱き締めたいと思ってくれていたのか。
『無理に決まってるだろ。水、冷たいんだぞ』
『いいじゃない。生きてる証拠よ』
欲望に負けて、彼女を灰色の砂の上に降ろした。
体力がなくて、立っていられない彼女は、数センチの海水の上に座り込む。同時に僕も膝を折って。
打ち寄せる波に倒れてしまわないように強く抱きしめた。
火葬場へ行くバスの中で、白昼夢。
背中にも胸にも、今でもはっきりと彼女の温もりが残っているのに。
ここまで来て、僕はまだ彼女を連れ去るチャンスを待っていた。
溢れる涙を拭って、バスを降りた。
「恒、最後の挨拶は隆史君に譲るのよ」
閑散とした火葬場は、工場のような雰囲気がして、僕の怒りを煽った。
死んだ小夜が人間扱いされていないような気がしたのだ。
母に言われた通り、最後の挨拶を義兄に譲った。
釘を打ち付けられた棺に、義兄はそっとキスをした。
そして、僕の最愛の体は、ゆっくりとドアの向こうへ吸い込まれ、一層大きくなった泣き声を振り切るように、義兄は。
スイッチを。
サヨナラ。
彼が呟くのを、聞いた。
『お兄ちゃん!直ぐに病院に来て!お姉ちゃんが…!』
妹の電話を受けたのは、病院の中にある万葉庭園でのことだった。
最後の一週間は彼女の夫が病室に付きっきりだったから、僕はせめて彼女が病室の窓から見下ろす万葉庭園にずっといた。
そこからは唯一、彼女の病室が見えたから。
それを知っていた彼女は僕の為に、窓のカーテンを開け続けた。
電話を切って見上げた窓は、医者によってカーテンがひかれる瞬間で、僕は遂に引き離されたと感じて、焦った。
エレベーターを使う時間も惜しくて、階段を駆け上がる。
小夜。
小夜。
小夜。
呼び続ければ彼女が留まってくれると信じて、思わず声に出していた。
しかし、残念なことにその日は雨。
それも、彼女が一番愛した狐の嫁入りだ。
病室のドアを乱暴に開けると、医者の心臓マッサージを受ける彼女の手を、義兄が必死に握っていた。
その周りに家族が囲んで、彼女の名を叫んでいる。
母の叫ぶような泣き声。父の怒鳴るような呼び声。
彼女の夫の、悲痛な愛の言葉。
母は、もしかしたら僕の彼女への感情が愛であると気付いていたのかもしれない。
僕を、義兄の握っていない方の手へ導いた。
宝物だったアイスクリームの手。
握れば思った通り冷たくて。
さらさら
さらさら
家族の叫び声より小さいはずの雨の音が耳をつく。
やめてくれ。
やはり僕は口にしていた。
逃げてもいい。
キミが逃げるなら僕も一緒に行くから。
キミが望むのは雨の海だから。
だからそっちに逃げちゃ駄目だよ。
頼むから、その雨の向こうを目指さないで。
逃げるなら僕と一緒に…。
雨の音が彼女を誘っている。
駄目だ。
そっちに行っちゃ。
強く握れば握る程この声が彼女に届くと信じて、指が白くなるまで彼女の手を握り締めた。
いかないで。
いかないで。
僕を置いてなんていかないで。
微かに、握り返してくれたと思ったのは、気のせいだと医者に言われた。
何故なら、その日は雨が降っていたのだ。
「終わった?」
「あぁ。これで全部だ」
火葬をしている間に、僕は彼女の病室に残った遺品を整理していた。
母が部屋を覗いた時、既に火葬が始まって2時間がたっていて、もうそろそろもう一度火葬場ひ行く時間。
僕は大きな紙袋を母へ渡した。
中には、病室で彼女が読んでいた本や、作った折り紙、日記や文房具、写真たて。
「あら、それは?見たことなかったけど」
「俺があげてたんだ。小夜は棚に隠してたみたいだけど」
母が指差したのは、紙袋へしまわずに僕が持っていたガラスの瓶。
ハチミツの匂いが残るそれに、僕は見舞いに行く度に、海で拾ってきた貝殻を入れたのだ。
瓶がいっぱいになる前に、終わってしまったけれど。
「そう。ほら、行くわよ」
消えてしまいたいと思った。
焼け焦げた台の上に残る白いものを、見た瞬間。
抱き締めることは、永遠に出来なくなってしまった。
無惨。
そう呼ぶのが相応しいと思った。
言われた通り、箸で一つ一つ壺へ入れていく。
すぐに交代しなくてはいけなくて、僕が壺へ入れたのは腕の一部だけだった。
『海に行きたいわ』
それは夢よりも思い返した記憶よりも、何よりはっきり聞こえた。
『恒…』
その瞬間、僕の全てが吹き飛ぶ。抗えない、愛しい声。
ポケットへ突っ込んでいたハチミツの瓶の蓋を開ける。
中身を全部その場にぶちまける。
箸を放り投げて、僕は彼女の欠片を、わし掴んで、瓶へ流しいれた。
「恒ッ!」
「お兄ちゃん!?」
そのまま、僕は走り出した。
息が苦しいのは、走ったからじゃない。
彼女を連れ去った雨が、僕を嘲笑うように纏わりつくから。
雨の中を全力で走り去るのは、酷く心地よかった。
僕をとめようとする家族や親戚を振り切って、火葬場を飛び出して。
国道の横をひたすら走る。
このまま走れば、彼女が去っていった雨の向こうにさえ辿り着ける気がして。
車の走行音に紛れ込んで、叫んだ。
自分で何を言っているのか分からずに、それでも心の底から大声を上げた。
好きだったんだ。
最後の最後まで、手に入らないと知っていても。
許されぬ恋だと知っていても愛し合ったんだ。
我慢して我慢して、最後まで知らない誰かのものなままのキミを、そのまま送り出したくなんてなかった。
最後の最後に、キミの一番近くにいる権利すら奪われて、
キミの望みすら叶えられないなんて。
辿り着いた海は、あの日と同じ顔。
足跡も残っていないその砂の上を、確かに僕は彼女を抱いて歩いたのだ。
あの瞬間、確かに小夜は僕のもので。
確かに僕は小夜のものだった。
父がカメラを探し当てられなければいいと。
このまま永遠が僕らを連れ去ってくれればいいと。
神へ叫んだ願いは何一つ叶えられることはなかった。
僕の願いを叶えられるのは神ではなく彼女だった。
彼女の願いを叶えてあげられるのもまた僕なのだ。
さようなら姉さん。
願わくば、キミの願いを叶えたあとも僕の夢に現れ続けて…。
…けれども、やはり僕の願いはことごとく叶えられることはないのだ。
ならばせめて、流れ去ったあの瓶が、浜へ打ち上げられることがないように。
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